“瘴癘”(しょうれい)って、コロナみたいなもん・・
中唐の詩人であり政治家の韓愈の詩、『左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す』です。
左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す 韓愈
一封朝に奏す 九重の天(イップウ アシタにソウす キュウチョウのテン)
夕べに潮州に眨せらる道八千(ユウべにチョウシュウにヘンせらる ミチ ハッセン)
聖明の為に 弊事を除かんと欲す(セイメイのタメにヘイジをノゾかんとホッす)
肯えて衰朽を将って 残年を惜しまんや(アえてスイキュウをモって ザンネンをオしまんや)
雲は秦嶺に横たわって 家何にか在る(クモはシンレイにヨコたわって イエ イズクにかアる)
雪は藍関を擁して 馬前まず(ユキはランカンをヨウして ウマ ススまず)
知る汝の遠く来る 応に意有るべし(シるナンジのトオくキタる マサにイ アるべし)
好し吾が骨を収めよ 瘴江の辺に(ヨしワがホネをオサめよ ショウコウのホトリに)
秦嶺山脈は、中国大陸の真ん中を東西に走っている。峻険な雪山である。韓愈にとって秦嶺を越えて南へ行くことは、得体の知れない風土病(=瘴)にかかり、死の危険を冒すこと。土着民は免疫があっても、都から行く韓愈にとっては危険きわまりない。だから、姪孫(てっそん=韓愈にとって甥か姪の子、この時代、男女を問わず兄弟の子は「姪」の字を当てる)の湘くんは、見送りといいながら、とうとう秦嶺までついてきてしまった。口には出さないが「これが見納めかも・・」の不安がぬぐえなかったからだ。
さて、交通往来が盛んでなかった当時は、危険な風土病はその土地限定だった。現代のコロナはそうは行かない。人が、物が、一瀉千里にコロナをばらまく。文明進化の思わぬ落とし穴だ。 (﨟泉 河田千春) (stay home)